色が無くなるほどの速さで⑤【アキラ場合 #2 】

まるでドブ川に潜って泳いでいるように、菜摘のいなくなった新宿を彷徨っていた。あの日のように、菜摘が後ろを追いかけてきて俺に声をかけるんじゃないかと思って、東口を出て同じコースを何度も歩いた。

菜摘がいなくなって1年。1994年の2月。それでもまだこの街のどこかに菜摘の姿があるんじゃないかと思って探す癖が抜けなかった。俺の何がダメだったのか、俺のどこか嫌われたのか、一生懸命考えていた。もちろんダメなところも嫌われるところも沢山身に覚えがある。菜摘が黙っていなくなる直前、菜摘はいつも不機嫌そうで、俺について嫌なところをいつも並べた。

「わたしはアキラの過去を知らない。どこで生まれてどこでどうやって育ったのか何も知らない」とか

「アキラみたいな仕事してる人を親に紹介できない」とか

「アキラのいいところ、好きなところが見当たらない」とか、さんざん言われた。言われたけれど、俺の気持ちにはあまり響かなかった。そんなこと俺だって知ってる。俺だって俺のことが嫌いだよ。

自分が生きている価値もよく分からないまま、それでもたくさんの女の子と傷つくだけの恋愛を繰り返していた。そんなことをいくらしても、俺がこの皮膚の内側に不安定そうに浮かんでいる魂みたいなものはどこにも着陸できそうにもないと言うのに。

 

1993年は、もうこの汚い街に嫌気が差して、茨城県の片田舎の街に引っ越したことがあった。都心まで一時間もかけて通勤するサラリーマンが死んだような顔で駅に集まるような、そんな田舎。駅から歩いて帰る道すがら、個人で経営している酒屋にいつも入った。60歳くらいのおばちゃんがいつもいて、俺は毎日そこでビールを買った。まとめて買っても良かったんだけど、その頃はそのおばちゃんが唯一の話し相手だった。俺の部屋には電話もなく、仕事で持たされていたNTTの携帯電話とポケベルだけ。田舎町で隠れるように暮らしていた。仕事がある時だけ新宿に行くと、肺が押しつぶされそうなほど苦しくなった。

だからと言って茨城の田舎町にいても、暗い影から解放されるわけでもない。アパートの出窓からつまらない田舎の住宅街の景色を見ては、ため息をついていた。苦しいのは夜。菜摘やほかのいろいろな女の子、俺から黙って姿を消してしまった女の子達が俺に代わる代わる話しかけてきた。時は笑って、時には深刻なことを俺に言う。それは夢なのか幻覚なのかは分からない。眠りに落ちるベッドの中の時もあったし、テレビを見ている時もあった。

田舎町の静寂さがそれを募らせていたのかもしれない。俺は誰で、どこから来て、今何をしているのか。それにすら俺は答えられなくなってしまっていた。まだ21歳だというのに。でももう21歳になってしまって、あと何年、いや来年は生きているんだろうかとさえ考えていた。

この頃の俺は、自分の中が空洞でその中に透明な魂が漂っているイメージをずっと思っていた。透明な魂は、きっと幼い頃に愛情で色彩と重量を与えられるのだと思う。俺は色も重量も自分の魂に与えることができないまま、ずっと恋愛にすがるように生きているだけなのかもしれない。

 

そして結局は新宿に戻っていった。また毎日仕事をするようになり、どこかで見たような女の子とどこかで感じたような恋愛を繰り返した。新宿にいればいつも耳鳴りのように街の音が聞こえてくる。その中にいろんな人の声が聞こえる。きっと気のせいなんだけど、菜摘の声も、父親の声も、母親の声も、パンクの声も、高校時代の彼女の声も、どこかから聴こえてくる。それが苦しい時もあるけど、きっとこの街で傷ついた心はこの街にいることでしか忘れることはできないよね。

 

実はその後、菜摘とは再会したことがある。

1994年の12月。俺が4年間毎日通った歌舞伎町の路地で、深夜1時に俺を待っていた。全然予想もしていなかった場所で、わざわざ俺を待って立っていた。


菜摘を見て、俺は泣きそうになった。透明な魂はお前じゃなきゃ色は付かないよ、そう思った。

なぜ菜摘が待っていたのかは当時の俺には分からなかった。お腹空いたって言うから、深夜3時までやっている中華屋に行った。何年か前、ここで誰かに出会った気がするけどもう覚えてない。

そうして菜摘とは朝が来るまで店を変えて話をした。あの時、なぜいなくなったのかだけは話題にしなかった。


12月の遅い朝がやってくるまで、深夜の新宿で透明な魂に菜摘の色彩で滲むように染めながら。


 

色が無くなるほどの速さで④【美彩の場合 】

アキラという男のイメージとはかけ離れた財布を持っていた。二つ折りの革の財布。きっと田舎のショッピングセンターのテナントで買ったような安物。縁が擦り切れているし、たぶん最初はきれいなブラウンだったはずの革が濃い色に変色してる。ズボンのお尻のポケットに財布を突っ込んでいるのがちょっと子供じみて見えた。
 
たくさんいる女たちの誰もこの人に財布をプレゼントしないんだなと不思議だった。
あの「アキラ」だと言うのに。
 
わたしがアキラと出会ったのはふたりとも18歳だった8月。
 
同じ年のアキラは、その頃はまだ「アキラ」ではなかった。ダイエーでアルバイトをしている童顔の男の子で、わたしの高校の同級生のバイト仲間ってことで一緒にご飯食べたのがはじまり。たしか、渋谷で。
あまり口数が多い子じゃなくて、ビール飲んで鶏のから揚げばかり食べてた。
同級生の子がアキラを狙っているって聞いていたので、あまり馴れ馴れしくしなかったけれど。でも、わたしにサラダを取り分けてくれたのを見て、結構いい子なんだなと思った。
 
「美彩ちゃんっていうんだね」とわたしにちゃん付けで呼ぶ同じ世代の男の子に初めて会った。
 
わたしの彼氏はサラダもとりわけないし、わたしのことは呼び捨て。10歳も年上なのに頼りなくて、お金もない。おまけにアムウェイにはまって俺はリッチになってハワイに移住するとか言ってる。わたしも怪しい集会に連れていかれそうになったけど、未成年だったので助かった。ハワイに移住するどころか家賃を4か月も滞納していて、そろそろ家に帰ったら家財道具を外に出されているかもしれない。成功するまえから成功者のようにふるまうことが大切とか言い出してBMW318をローンで買ってしまったし。そのローンだって滞納していて、いつクレジット会社に持っていかれるか分からないよ。
なんでこんなたちの悪い貧乏神みたいな男と付き合ってるんだろう。
 
会計をするとき、びっくりした。
女の子4人とアキラの5人分の会計を全部アキラが出してくれたから。
「バイト代入ったから」とアキラは言ったけど、ダイエーなんかのアルバイトでそんなお金が入るわけない。きっと家がお金持ちなのか、儲かるバイトを他にもしてるんだって思った。
女の子たちはみんなびっくりして、そして喜んでいたけど。
 
じゃあねって言って一人でアキラは歩いて帰った。渋谷の駅のほうに向かって歩いていくのをずっと見てた。黒いTシャツの背中に、Echo&The Bunnymenって書いてあった。どこかのバンドTシャツ。日比谷の野音で誰かわたしの知らない人のライブを見てきたよって話をしていた。音楽が好きなんだって。
 
どこに帰るんだろう?ってわたしは思ってた。そういえば、誰もアキラが住んでいる場所を知らなかった。
 
その年、1990年の12月。
 
アキラと偶然再会したのは、新宿だった。わたしは事情があって風俗店で働き始めてた。わたしはお金が必要だった。お金のない彼氏を助けるために。
仕事終わりに、深夜三時までやっている中華料理店に女の子たち3人で行くと、店の端の席に見覚えのある男の子がいた。うつ向いて炒飯を食べてたのは、8月にから揚げばかり食べてたあの子だった。
彼のこの街での名前は「アキラ」で、8月の時と印象がまるで違ってた。もっと、こう、心の中が少し腐っているような感じがしたよ。きっとこの街で腐ってしまったんだ。
 
「アキラくん、今度相談乗ってよ」
「いいよ」
 
アキラは軽く返事をしてくれて、明日の同じ時間にこの近くの喫茶店で待ち合わせすることにした。
 
次の日の夜に、アキラは30分遅れて喫茶店にやってきた。
ごめんねって幼い顔に笑顔をいっぱいくっつけて。ほんとに子供みたいな人。
 
「それで、美彩ちゃん、相談ってなに?」
わたしは話し出す勇気がなかった。だから急に黙ってしまった。あの、あの、って口ごもりながらなんとか話そうとすると、「ゆっくりでいいよ」と言ってくれた。
 
アキラはコーヒーが好きじゃないんだと言って、メロンソーダを頼んで飲んでいた。
 
わたしは、、、10歳年上のアムウェイの彼氏と付き合っていたけれど、彼氏と同じ年のアムウェイ女と付き合うことにしたからって勝手に去っていった。全く悲しくなかった。甲斐性なしの夢見がちなおっさんは消えてくれてせいせいした。今まで貸したお金は返して欲しかったので借用書を書かせた。意味なんかないけど。
 
そのあとで付き合い始めたのは、わたしより2歳年上の背の高いかっこいい人。男友達に紹介された。
かっこいいし、話も盛り上がるし、わたしが知らないことを教えてくれる。わたしが夢中になるのも時間の問題。
 
でも、その彼氏からある日、2万円貸してくれない?って言われた。わたしも夜の仕事してるからお金だったらあるんだけど、何に使うの?って言ったら突然泣き始めてね、借金返せなくて取り立てが家までくるんだって困ってた。わたしは仕方ないよねって言って、財布から2万円を貸した。わたしの財布には20万円が入っていて、泣いていたはずの彼氏は「いっぱい入ってるね」と急に顔つきが変わった。あ、と思ったけどわたしは気持ちを飲み込んだ。
 
彼氏は付き合ってすぐに、私が借りた百人町のアパートに転がり込んできた。実家に住んでいると言っていたけど、いつも服が同じだったし、たまに身体が臭かった。きっと実家も追い出されてあちこちに居候したり野宿していたんだと思う。
 
わたしはこういう男を放っておけない。つまりダメ男。仕事が見つかるまでわたしがお金を全部出しても良かったし、仕事が見つかっても一緒に暮らしてほしかった。そうすればずっとわたしの近くにいてくれるから。
 
こういうのを依存っていうって雑誌で読んだ気もするけど、わたしは親がいなくて生田の親戚の家で育った。その家では居場所がなかった。いつも寂しいから誰かが一緒にいてほしいんだ。それを依存と呼んでもわたしは構わない。わたしには依存が必要なんだから。
 
でも、わたしはこの一か月、仕事がろくにできてない。彼氏に叩かれて体に痣が出来てる。こんな身体じゃ買ってくれるひとがいない。苦情を店に言ったお客さんがいて、傷が治るまで店に出てこないでって言われてる。当たり前だけど風俗嬢って仕事がないとお金も入ってこないでしょ。
 
自分ひとりだったら一か月休んだっていいけど、彼氏がたくさんお金が必要で。借金もあるし訳わかんないことにお金たくさん使うから。お金を渡せなくなると彼氏はよその女に頼るっていうし、でもお金がないと言うと叩かれるし。
それで、アキラにお願いしたかった。
 
10万円、いや、5万円でも2万円でもいいから貸してほしい。必ず返すから。
きっとアキラは断らないはず。断れないはず。あの子優しい子だから。
 
ずるい私は理由を嘘をついた。お母さんが病気でお金がかかるって。お母さんは子供のころに死んだけど。
 
そうしたらアキラは貸すよと言って、明日朝になったらATMで下ろして貸すからと言った。15万円。
来月返すからってわたしは言ったけど、顔がにやついていたかもしれない。
 
自分を最低だとは思わなかった。でもアキラは優しいと思った。これでわたしは安心できるんだって思った。
 
翌月に仕事を再開できたけど、わたしは彼氏に渡すお金と、彼氏の代わりに返す借金が大きすぎて、アキラへの返済まで回らなかった。それどころか、またアキラに借金を申し込んだ。そしたら5万円貸してくれた。
 
アキラのことを彼氏に話したら、そいつからさらに10万借りてこいと言われて、また借りに行った。そしたらまた貸してくれた。借金は30万円になった。
 
なぜアキラが貸してくれるのかは分からなかった。想像することも止めた。想像なんてしなくてもアキラは勝手に貸してくれる。それくらい貸せるほど金回りがいいんだ、アキラはきっと青森のお金持ちのぼんぼんなんだろうから。
 
そうして1991年になって、桜が咲く春がきて、夏がきて、秋がやってくる頃、アキラからの借金は380万円になっていた。
さすがにアキラはそう簡単に貸してくれなくなった。
貸すのはいいけど、返せないよなって言われてしまって。俺はいいけど、お前はこれから苦しむんだから貸せないって言われてね。
 
借りられなくなったら、彼氏は激怒してまた殴られるようになったんだ。彼氏はこのところいつも焦ってた。あまりよくないところから借りているみたいで、サラ金だったら返済日も知らんぷりしてたのに、今は返済日が近づくと苛立つようになった。怖い人から借りてるんだと思う。
違う女をアキラに当てがって、その男に借りさせて持ってこいって彼氏が怒鳴る。
 
わたしはそうするしかなかった。口答えしたらきっとまた殴られる。
わたしはこの彼氏に依存していたけど、自分がこんな生活をしてるなんて思われたくなかった。だから彼氏とは別れたってまわりに嘘をついていた。
 
同じ店の菜摘っていうトロい子がいた。新宿育ちのお嬢様で、頭が良くない。風俗嬢なんて向いてないのになぜやってるのかも分からない。きっとバカなんだと思う。あの子をさしむけて、アキラにお金借りさせようと思った。わたしがアキラに入れ込んでいて、菜摘を誘って食事に行って恋を成就したいっていうストーリーで。
 
予想通り、約束は取り付けることができた。問題は彼女にどうやってお金を借りさせるかだけど、菜摘はバカだからそのままお願いすればなんとかなると思う。あと、アキラはわたしを見て、お金返せって言わないか不安だけど。返さないわけじゃない、返せないんだ。返すお金がないし、もっと借りなきゃならないんだ。わたしは風俗嬢だからサラ金でも貸してくれないし、クレジットカードもキャッシングを目いっぱい使ってそれも返してない。アキラに頼むしかないんだよ。
 
でも待ち合わせの当日、店に知らない男の人から電話が来た。
 
「あなたの彼氏のことで、部屋に上がって待ってるよ」
 
声だけでも怖い人だってことが分かった。お店にたまにやってくる怖いお兄さん達と同じ、スムーズじゃないしゃべり方だった。
慌てて菜摘にキャンセルをして、適当な理由を言って、自転車で家に帰った。途中で人にぶつかりそうになって怒鳴られたり、車に轢かれそうになったりした。
アパートに着くと、中には男の人が2人と彼氏がいた。彼氏はうなだれて正座している。男の人2人はどちらもスーツを着ていた。でもサラ金の社員みたいなスーツじゃない。この界隈で人を怖がらせる職業の人が着ているあれ。
 
「お嬢ちゃん、彼氏にちゃんと金返すように説教してよ。こっちは銀行じゃないんだから困るよ。ぼくたちお給料もらえなくなっちゃうよ」
 
明日まで用立てなきゃならないお金は35万円。それは全部利息。来週も同じ額。どういう契約でどういう計算なのか知らないけど、違法かどうかを言える空気じゃなかった。彼氏は今夜中にさらに10万円を要求されてる。これから親のところに借りに行こうかと言って、電話をかけさせられてた。何度も電話してやっと誰かが出て、震える声でお金を貸してくださいと頼んでいた。
 
男二人は大声で話す。こんな夜に近所に全部聞こえてるはず。
引っ越してきたとき、ここはわたしの唯一の居場所だった。親戚の家で寂しく過ごしていたわたしが、気兼ねなく寝たり起きたりしていい場所。ここはわたしの人生のスタートの場所だった。
 
でもこんな風に、わたしのせいじゃない借金でこんなことになってしまってる。
無理に無理を重ねて、アキラにまであんな額の借金をして、菜摘まで騙そうとしてたんだ。
 
「あ、それからな、お隣さんがお前らのセックスの声が迷惑だって言ってるぞ」そう言って男二人は笑った。
 
彼らは彼氏を強引に車に乗せて群馬に向かっていった。彼氏は部屋着のまま。最初は暴れたのかシャツの首元が伸びていた。掴まれたのかもしれない。
 
土足で踏み込まれて散らかった部屋を片付ける気にもならなかった。せっかく買った可愛いカーテンもレールごと外れてしまって、壁に穴が空いてしまった。
情けなくて涙が止まらなかった。
普通の人生にしたかったはずなのに。無理をしてお金をたくさん稼いできたはずなのに。暴言を吐く酔っぱらいに抱かれて、それでも自分だけの居場所を作れたことに誇りを持っていたのに。
やっと買ったテレビも壊れてしまって。タバコをカーペットで踏み消したのか焦げた跡がたくさんある。
 
自分の人生が情けなかった。
 
死にたいと生まれて初めて思った。
 
泣きながら浴槽に熱いお湯をためて、服を脱いで入った。熱いはずなのに熱を感じなかった。
子供のころにいたはずのお父さんと、お母さんと一緒に昔の家で暮らしたいと思った。叶うはずもなくて、わたしはたった独りぼっちだけど。
こんな人生はリセットしてもう一度やり直したい。もう一度生まれ変わりたい。生まれ変わったら、こんな街でこんな仕事をしてこんな性格になってこんなみっともない人生にならないようにしたい。また同じ人生になるのかもしれないけど。
 
美彩というわたしの人生は、こうして泣きながら終わろうとしてる。
 
あ、テーブルの上でコーヒーがこぼれていたなって思うころには、もう目の前が暗くなり始めていた。
 
痛さも感じなくなって、暗い部屋の中から誰か優しい人影がふたつ、わたしを迎えに来てるような気がした。きっと、父と母だと思う。
 
こんな泣きながら死ぬ人生にして、両親にごめんと言いたかった。
 
 
次回は【アキラの場合#2】です

色が無くなるほどの速さで③【菜摘の場合 #2】

アキラと初めて会った次の日の夜、アキラの連絡先を聞こうと思っていた店の子が、昨晩死んだということを聞いた。自宅アパートの浴槽の中で死んでいるのを発見された。その原因が自殺なのか他殺なのは分からない。昨日は復縁した彼氏とアパートで過ごすと言って嬉しそうに帰ったので自殺なんてありえないと思う。でも自宅の浴槽の中で血に染まって死んでいたらしいよって店長に聞いた。発見されたのはその日の13時頃。合鍵を持って部屋に入った若い男性が第一発見者らしかった。

わたしは誰が犯人だろうとどうでもよかったけど、あの子が沈んでいた浴槽のお湯は13時には水になっていただろうなと想像した。かわいそうに。

 

昨日一緒に焼き鳥屋に行っていれば殺されなかったのかな、それとも自殺しなかったのかな。彼氏と復縁したって聞いたけど、あれは嘘だったのかもしれない。3人でごはん食べるのを楽しみにしていたのに、それをキャンセルしてまで向かった先はどこだったんだろう。

思いを巡らしている暇もなく、私に事情を訊きたいと言う警察がやってきた。最後に会ったのは私らしかった。わたしは昨晩の経緯を警察に話した。本当は友達とごはんを食べようとしていたこと、突然キャンセルをして部屋に帰ってしまったこと。

 

「それで、その二人で会うことになっていた男性はどこの人?」

中年太りで口臭がひどい警察官がわたしに訊いた。

わたしはふと思い出したんだ。あの子がキャンセルして来ないよって告げた時、「よかった」と安心していたこと。アキラは何か知っていたのかもしれない。

でもどこの誰かはよく知らない、連絡先も聞くの忘れた、とわたしは警察官に言った。

「よく知らない人と食事に行ったりするもんなのか?」と不審そうな顔をされたが、わたしは無視した。わたしは嘘をついていなかったけれど、何か隠しているように聞こえるだろうなと思った。

 

警察官が帰った後、わたしは死んだあの子と仲が良かった男の子を捕まえて、アキラというのがどこにいるのか、どうやって連絡をつけたらいいのかを聞き出そうとした。すると誰もそんな奴は知らないと言った。死んだ子は誰にもアキラのことを話したことがなかったみたいで。

仕事をするような気分じゃなくて、店のソファに座って昨日のことを一生懸命思い出していた。西新宿の自宅でバイバイと手を振った後、どこにどうやって帰るんだろうと思った。あのまま、あの子の部屋に行ったのかな。そしてあの子を殺したのかな。でも自分を殺すかもしれない男と、あの子はあんなに会おうとするのかな。会いたがっているあの子とは対照的に、アキラは会いたくなさそうだった。

 

ただの大げさな妄想だったらいいけれど。

 

アキラと再び会うことになったのは、意外にもその次の日の夜だった。アキラはJRの東口から毎日駅を出ると聞いていたから、次の日の16時から東口にいたんだ。あの風貌なら雑踏の中でも見分けがつくはず。

案の定、アキラは17時50分頃に現れた。服装はジーンズで眼鏡をかけていたけど、髪の色と体型で分かった。私は後ろを走って追いかけて、アキラを捕まえた。

アキラはわたしを見て驚いたみたいだった。

「このまえ連絡先を聞いていなかったから待っていたんだ」とわたしが言ったら、俺も連絡先を聞いてなくてがっかりしてたよと笑って言った。

「警察がアキラを探してるね」

「警察ね、来たよ昨日。あいつ死んだんだろ」

「そう。殺されたの?」

「分からないけどたぶん彼氏だろ。金で揉めてたから」

「最初に見つけたっていうのが彼氏?」

2歳年上の彼氏はあの子にいつも小遣いをせびってた。2万円、3万円とその都度渡す関係だったけど、渡すお金がないと殴られていた。だからお金がないときはアキラたち男友達に頼って借りていた。借りて彼氏に貸していた。

それで昨日も彼氏がやってきて、喧嘩になんだんだろってアキラが言う。

「そうなんだ、アキラが殺したのかと思った」

「そんなわけないだろ」

アキラは声をあげて笑った。

アキラは、今日は仕事何時に終わるの?終わったらメシ食おうか?と誘ってくれた。

「その前に連絡先教えて」

すると、自宅の電話番号とポケベルの番号を教えてくれた。

深夜0時にカフェで待ち合わせすることにした。なぜだか、わたしは機嫌がよくなってしまった。死んだあの子のことは忘れてしまっていた。

 

「アキラと付き合ってるって?」とわたしに突然言ってきたのは、店長だった。

あいつ、やめとけ。胡散臭すぎる。そう言った。「何人オンナがいるかわかったもんじゃない。女から金をむしり取るやつだって聞いた」

でもわたしはもうアキラと付き合っていたし、食事してもどこに行っても、お金を出したことは一度もなかった。アキラは割り勘をしない。お金を貸してとも言われたことがない。

人の恋の事情に土足で入ってきて親心を気取るおっさんが大嫌いなんだわたしは。わたしの恋はわたしが全部決める。誰にも相談なんかしないし意見なんか欲しくない。そんなものが必要だったら恋なんかしない。

 

わたしはアキラとの恋愛に夢中になっていた。毎日のように会い、毎日のようにどうでもいい日常の出来事を言葉で教え合う関係に、わたしは夢中になった。そんな恋愛はしたことがなかった。同級生の男子と割り勘でするデートしか経験がなかった。

アキラとの恋愛は、感情と感情にかけられた冷たい木製の橋を素足で渡るようなもの。時々体が動かなくなるほど疲れてしまう。でもその橋がないと生きていけなくなる気がする。見ている世界をわたしも見たくなる。でもそのままフィルターなしの視界を移植したら、きっとわたしは死んでしまう気がする。その冷たさと、孤独さと、その熱量で。わたしの目が凍てつき、溶けてしまうかもしれない。

アキラはわたしを離そうとしない。わたしとの時間をどんどん増やしていく。わたしはアキラの思考に染まってしまうのが時々怖くなることもあった。

 

アキラとわたしは、よくわたしの自宅の近所を散歩した。こんなところ歩いて何が楽しいの?ってわたしは訊いた。すると、17歳の菜摘が歩いた道や、10歳の菜摘が見た景色を俺も見るのが楽しんだよと言った。

変わってる人だなっていつも思った。この人は、2人ですることよりも、2人で見ることのほうが大切な人だって分かったのは、もうすっかり秋が深まった頃。

 

そんな秋を超えて、マフラーをする冬がやってくるころ、わたしは時々憂鬱さを感じることが増えた。アキラが嫌いなんじゃない。ときどき、悪く酔ったようになってしまう。

わたしは夜の仕事を続けることが出来なくなった。男たちに媚びを売ることができなくなったんだ。私の中の何かがどんどん複雑になっていて、単純なことができなくなった。汚いオヤジにお世辞を言ってお金をもらうことが、情けなくなってしまった。

でもアキラはおばさん達に身体を売ってお金を稼いでいる。わたしよりももっと露骨で、もっと恥ずかしい仕事をしてる。でも、わたしはもうこの夜の街では仕事をしたくなくなってしまった。

それは、決して快適な感覚ではなくて。

アキラという存在に影響されて、そして依存していくかもしれない自分に怖くなった。依存できる相手なのかも分からなくなった。過去も、現在も、未来も、どんどん組み替えられていくような不気味さを感じたよ。

アキラのいない17歳っていう年齢があったのかさえ、分からなくなる感覚まであって。

わたしは、恋愛というものが何かさえ分からなくなったんだ。

 

相変わらずアキラと一緒に長い時間をい続けたけれど、1993年の2月、もう私は限界だった。

この人は好きだけど離れたい。そうじゃなきゃ私が壊れてしまう。そう思って、アキラと連絡を絶つことにした。きっと繊細なアキラは動揺し、傷つく。でもわたしも傷ついている。何に傷ついているのかは分からないけど、アキラを嫌いになる理由が必要な自分に気づいた。

 

アキラを忘れるために、好きでもない男と夜飲みに行くようになった。アキラほど繊細でも敏感でも才能があるわけでもない退屈な男と。

ある日、歌舞伎町のはずれの小さな居酒屋で男と食事していると、隣に座ったサラリーマンが悪酔いして私の連れの男に絡んできた。このガキが、俺をバカにしてるんだろうと胸ぐらをつかんできた。なぜ突然そうなったかは分からない。ただ、つまらない話をして笑っていただけなのに。

「帰ろうよ」とわたしは言った。店員の若い男がおどおどしながらサラリーマンを押さえようとしたけれど、「なんだてめえは」と大声で怒鳴り店員を殴ってしまった。若い店員は床に頭を強く打ち、動かなくなった。店の中が騒然として誰かが「救急車!」と叫んだ。

「死ねよおまえらー!」酔ったサラリーマンは大声で叫んで椅子や机を蹴飛ばしていたけれど、周りの客が大勢で男を取り押さえた。

 

つまらない光景。アキラがいたらなって、わたしは考えていた。アキラといたら、こんな店に来なかった。この夜だってアキラと深夜に待ち合わせをして歩いて送ってもらうはずだった。

アキラとまた会いたいと思いながら、でも、と思い直した。

あんな気持ちになってしまうのが怖い。まだ子供なわたしには、あの濁流みたいな感情の川に飛び込んで生きている勇気がない。

アキラを嫌いな理由を、頭の中でまた思い出して、虚ろな気持ちで家に歩いて帰る。いつかこうしているとアキラとすれ違うのかもしれない。それを期待している自分もいたけれど。

 

次回は【美彩の場合】です