【The Weekend】雪で見えなくなる波間のこと

俺が住んでいたアパートから歩いて20分くらいのところに、私立大学があった。

俺のような夜の街で生きている荒んだ男にとって、そこは常に嫉妬のような諦めのような感情を呼び起こすような場所だった。毎日その大学の敷地に吸い込まれていく若者たちは、いつも絶えず笑っていた。友達同士だったり、もしかしたら恋人同士なのか、いつも群れては大声で笑っている姿を見ていた。

俺も20歳だった。20歳の冬。
俺だってもし病気じゃなかったら、もしあんな育ちじゃなかったら、なんていつも「もしも」の世界ばかりを夢見ていた。俺だってあんな風にジーンズにリュックを背負って、大学に通っていたのかもしれないと。

俺は金髪の頭をして、痩せこけていて、白い顔をしていた。俺が吸い込まれていくのは、大学の門ではなく、夜の街、ラズベリー色の世界っだった。そこにいるのはパーカーを着た大学生たちではなく、甘い声で俺の身体をベタベタ触りながら彼氏に殴られた痣を見せてくる甘い声の18歳や、作り物のように完璧な曲線を描くお尻を触らせようとする年上の夜の女、女らしさを毛嫌いするけど胸の谷間がレザージャケットの奥に見え隠れする20歳の女、そんな世界。

みんなどこから来たのか、なぜここにいるのか、俺に話してくれるくれるけれどそれが全部作り話であることは知っていた。漆黒のロングヘアが美しかった19歳の少女は都内の開業医の娘ということだったが、ある日コンビニの前の公衆電話でどこかに電話している姿を目撃した。俺がすぐ後ろを通り過ぎた時、話しているのが日本語ではないことに気づいた。詳しいことは何も分からないけれど、たった20年程度しか生きていない子達でも、それぞれ想像を超えた場所から、様々な物語を生きてここにいるんだと思った。

俺だってそうだ。俺は、青森の八戸という田舎町から上京してきたことはみんな知っていたけれど、それ以外は本当のことは誰にも話さなかった。

俺は俺だけの物語を、1人で抱え込んでいた。それがあの夜の街での生き方だった。

 

俺は明け方に家に帰る。あまり眠るのが得意ではない俺だったから、冬の夜の冷たい空気を引き裂くように空が白くなっていくのを、ベッドの上から眺めていた。次第に眠くなっていき、気がつくと正午を過ぎていた。

近所のコンビニに毎日飲み物を買いに行くのが日課だった。キャップを被って金髪を隠し、バギーパンツにダウンジャケットを羽織って、ヨタヨタと歩いてセブンイレブンに行く。

そんな時にいつも、私立大学に通う学生とすれ違うんだ。

 

大学生の女の子とすれ違う時、いつもいい匂いがした。夜の街では嗅いだことがない清潔な匂い。誰かの唾液や体液で汚れていない女性の匂い。

俺はといえば、シャワーを浴びても消えることがないアンテウスの匂いがしていた。指の先から、大人の女の匂いが消えやしない。しかも何十人分も。自分がとても不潔に感じたものだった。

 

そんなある日の夕方。セブンイレブンの前で学生証を拾った。

男子学生のものだった。財布の中からすり落ちたんだろう。生年月日を見ると俺と同じ年。顔写真がついていて、可愛いおぼっちゃんのような顔立ちだった。

 

せっかくだから、大学に届けてやろうと思った。事務所か何かそういう場所があるだろうから。

 

歩いて私立大学まで行き、中に入ってみた。人気のない裏門から恐る恐る、擦り切れたコンバースのゴム底でアスファルトを踏みしめて。

夕方の大学は人気がなかった。まだ講義中だったのかは分からない。田舎の高校の校舎とは全然違って、何か俺には手の届かない立派な建物に見えた。研究所と言う感じだ。試しに建物の一つに近づいてみると、どうやら図書館らしかった。

中を除くと、学生が数人いるのが見える。

 

入れるだろうか。部外者だから追い出されるだろうか。追い出されてもいいから入ってみたいと思った。

 

重いガラス扉を押して開くと、ロビーが広がっていた。フロアの向こう側に事務所のようなスペースがあった。「大学関係者以外立ち入り禁止」と看板があるが、セキュリティは何もない。俺は呼び止められることもなく、学生に不審な顔をされることもなく、中に進んでいくことが出来た。

 

真冬のことだから、暖房で空気が乾燥しているのが分かった。咳ばらいを一つして、書架に近づいた。本の背表紙を見ていくと、随分と難しそうなタイトルばかり。俺が読めるようなものはないなと思った。

試しに一冊だけ手に取って中を開いてみても、日本語とは思えない文章だった。数行すら読めない。意味が分からない。

 

へえ・・・頭いい人が来るところなんだねと思いながら、壁が大きなガラスになった階段を登って二階に行った。

窓側の席には学生たちがそれぞれ勉強しているのが見えた。

 

そこには「民俗学」と書かれてあった。また本を手に取って見ると、驚いたことに写真集のようだった。さらに驚くことに、俺の生まれた故郷の街についての本だった。

冬の海。激しく雪が降り、海の向こうは暗くて何も見えない。宿命に耐える漁民のような老人たちが、うつむいて働いている。昼なのにヘッドライトを点けた古い車が走っているのも写っている。

何について研究した本なのかは分からない。けれど、俺はその写真集を見て激しく気持ちが乱れた。18歳まで、この街で、悲しさだけを抱えて生きていたんだ。ほんの少しの恋愛と、揉め事と、怒声と、殴られる時に骨が軋む感覚と。

高校生の時に付き合っていたあの子はどうしているのかなと思った。実の母親は俺が上京するときも俺を無視していたけれど、元気で暮らしているかなとも思った。

 

そんなことを巡らしていると、急に眩暈がした。息が苦しくなった。

気づくと横に女性立っていた。

「大丈夫ですか?すごい汗ですけど。」

水色のニットを着た、胸の大きな女性だった。きっと大学生だろう。

「大丈夫。ありがとう。」

特段感情も込めずにそう礼を述べ、俺は図書館を離れようとした。

 

「ちょっと」とニットの女性が俺を追いかけてきて呼び止める。「体調が悪いのでしょう?脚が震えてるよ。よかったらラウンジで水でも飲みましょう。」

 

見ず知らずの男に随分と優しいんだなと思った。

 

女性に腕を抱えられ、エレベーターで一階に降りて、その奥にあるラウンジまで歩いて行った。少しタバコの臭いがした。

ソファに座ると、ニットの女性は俺に水を差しだしてくれて、俺は勢いよく飲んだ。こめかみがドリルでえぐられる様に痛かった。

 

「大学の人しか入れない場所なのになぜいたの?」と女性が言う。

「すいません」

「別にいいんだけど、明らかに大学生じゃないから目立ってたよ」

 

「ねえ」とその女性は俺にまた触れた。「わたし、あなたのこと知ってるの。」

 

俺は無表情を貫こうとしていたが、動揺は隠せないようだった。

「アキラ。そうでしょう?」

 

なぜ分かるの?と俺は頭痛を感じながら訊いた。すると女性は笑った。8月の夏休みに、あなたと新宿で飲んだのよとまた笑う。

 

ああ、そうか。付き合いで参加したコンパがあった。君もいたんだね。

と俺が言うと、女性が言う。

「あの時は何も話してくれなかったけど、あなたの髪の色で覚えていたの。」

 

少し落ち着いて、よく顔を見ると、誰かに似ていた。誰かは思い出せないけれど。

 

俺は一流大学という場所に興味があって入ってみたかった事を正直に言った。俺の人生に縁がないところだから、と。それで図書館に入ったんだけど、故郷の写真を見て動揺して取り乱してしまった、二度と帰らないつもりの街だから、と。

 

ふうんと、女性は笑顔で俺の話を聞いていた。

「あなたはまるで文章を読み上げるように、感情のない言い方をする。」と俺に言った。

「そうか、よく言われる。」

「面白い人」

 

「大学ならいつでも案内するから、いつでも私に連絡して。」と、小さな鳥の絵が描かれたメモ用紙に電話番号を買いて、俺にくれた。

「それと、もっと、その生まれた町の話を聞かせて。」

 

「必ず電話するよ」と俺は答えた。

 

「あ、それと」俺は言う。「学生証を拾ったんだ。どこに届けたらいいかな。」

女性は学生証を見て、俺の手から奪い、近くのゴミ箱に捨てた。

「アキラが関わるような世界の男じゃない。雑魚だよ。」と笑顔を見せた。

 

俺はお礼を言って、家に帰ることにした。

 

またねって、女性は言う。

「名前を聞いてなかった」

「じゅんこ、です。」

誰かと同じ名前だった。

白いスカートに水色のニット、細い身体。長い髪。白い肌。

「もうどこで会っても忘れないよ。」

「さすがね。」じゅんこは笑う。

よく笑う素敵な子だね。

 

俺が歩いて去るとき、振り返るとじゅんこは大きく手を振っていた。

 

その夜はまたいつものように仕事に出かけた。客の女性と食事をして、ラブホテルに入ってシャワーを浴びる時、ふとじゅんこのことを思い出した。

それと、あの生まれた街の冬の海と雪。口の中に、血の臭いがする気がした。

 

明日の朝、いきなりだけど、じゅんこに電話をして食事に誘おうと思った。

 

明け方、また家に帰る道すがら、俺はこのままどうなっちまうんだろうなと思いながら空を見上げた。星は一つも見えなかった。

 

 

 

 

【The Weekend】失われていくもののスケッチ

本日のお話は、『蝉』のサイドストーリーです。

 

loverescue.hatenablog.com

 

10代最後の夏が終わろうとしている9月。

 

少し肌寒い朝があった。明け方まで客と過ごすことは絶対にないのに、その夜は40歳女性の愚痴にずっと付き合っていた。

新宿の大ガードの近くにあるホテルの一室。窓際に置かれた二つのソファに座り、もうぬるくなったコーヒーを飲みながら話を聞いていた。

 

せっかく夕食を作って待っていたのに、夜遅くに電話がかかってきて「仕事で遅くなるからいらない」と言われたとか。旦那が家で寝ている深夜に無言電話がかかってくるのは浮気相手が嫉妬で狂っているんじゃないかとか。最近旦那の下着がどれも派手になって気持ち悪いとか。

女性が話す姿を虚ろな気分で眺めていた。

19歳の子供にとって、それは別に楽しい話でもなく実感もない。ただ退屈でしかなかった。

へえそれはひどいね、それは寂しいね、それは頭に来るね、意味もなくそう言って相槌を打っていたが、今の自分の顔を自分で見たら、きっと吐き気がするほど気持ち悪いだろうなと想像していた。

いい匂いのする美しい女性だった。甘く、少しシトラスが混ざった香りが髪からする。髪に触れるとしっとりとしていて、お金をかけているのが俺でもよく分かった。

 

窓の外には西新宿の高層ビルが近くに見えていた。明け方まで照明が灯っている会社がたくさん見えた。朝4時を超えると、次第に空が白んできた。

少し寒気がしたのは、シャワーを浴びて髪を乾かさないままソファに座っていたせいかもしれない。

あまり身体の調子が良くない。セックスするときも体が重かった。

 

「こんな時間。そろそろ帰らなきゃ」と客の女性は言った。

まだ5時にならない頃、チェックアウトしてホテルの外に出た。

悪寒がもっとひどくなっていた。まだ夏の終わりだというのに、ひどく寒く感じる朝。

客の女性はホテルの駐車場に停めたグレーのジャガーXJ-Sに乗り込んだ。

「送っていくよ?」と女性に言われたけれど、事務所に寄って帰るからいらないよと俺は嘘をついた。

女性は俺の胸ポケットに何かを押し込んだ。数枚の一万円札だと気づいた。

女性はジャガーから笑顔で手を振って、地鳴りのような排気音を響かせながら靖国通りの方向に走り去った。大通りを左に曲がるまで、俺は手を振っていた。

 

悪寒だけではなく、なにか、経験したことがない体調の悪さだった。熱があるわけではなさそうだったが、歩くことすらしんどくなった。後頭部の痺れるように痛い。

その日は俺は休みの予定だった。昼過ぎにはパンクが俺の家に迎えに来て、夜は渋谷で映画を観ようということになっていた。

とりあえず部屋に帰りたい。新宿駅の東口まで歩いてたどり着ける気がしなかった。数百メールの距離が歩けない。偶然タクシーが走ってくるのが見えたので手を上げて停め、なんとか乗り込むことができた。

「お兄さん、ずいぶん体調悪そうだね。大丈夫かい。」と初老の運転手が言った。

きっと俺のことを面倒なヤク中だと思ったのだろう。金髪の俺は、どこから見てもこの町に棲む商売男だったから。

 

きっと悪い風邪だろうと思った。パンクが来るまで寝ていればきっと治る。風邪薬を飲んで少し横になろうと思った。

服を自分でなんとか剥ぎ取って、うめき声をあげながらベッドに潜り込んだ。 

 

だが、横になって1時間もすると、体調はより苦しくなった。

寝ぼけていたんだろうか。文字通り腹の底から湧き上がってくるような強い怒りで、身体が脈打つような気がした。何について怒っているのか、何について頭に来ているのか、自分でもよく分からないが、とにかくものすごい怒りで心臓が口から出そうなほど強く鼓動しているのが分かった。

 

夢だったのか、いつもの幻覚だったのかは分からない。幼い頃の両親のことを考えていた。そして、捨てられた日のこと。小学校に入っても勉強についていけず、高学年まで九九すら言えなかったこと。壮絶ないじめを受けていたこと。死ねばいいのにとあらゆる人から言われたこと。俺を捨てた母親に面会を拒絶され続けたこと。

それが怒りの理由かどうかは分からない。でも、まるで現在起きていることのように記憶が迫ってきた。叫びだしそう。大声を出してそんな感情を振り払いたい。そのうち明らかにまともじゃないものが目に見えるようになった。

記憶の中の母親が目の前に現れては黒い服に着替えなさいと俺に何度も怒鳴ったり、その横では同級生たちがナイフを持ち出して俺を殺そうとしている姿も見えた。

夢なのか、幻覚なのか。目を覚ましても騒がしい声がする。

 

大人になって思うと、この頃、病気が再発していたんだ。高校生になる頃に始まった幻聴と幻覚。そして現実感の喪失。頑張って勉強し入学した進学校で、まったく勉強が出来なくなる原因を作った病気だった。

現代ならきっといい薬もある。親も教師も理解してくれるだろう。でも当時は治療などしたこともなく、怠けものと言われ惨めな思いを随分とした。

その病気が、また始まっていたのだと思う。

19歳のその頃、過労とストレスが重なっていたのも原因の一つかもしれない。俺は毎日生きることに必死だった。

 

疲れているはずなのにもう眠れなくなり、遮光カーテンを閉め切ったまま、テレビをつけてバーボンの瓶を手にした。店の社長が俺にくれたワイルドターキー。あまり好きな酒ではなかったが蓋を切り、適当にグラスに注いでストレートで飲んだ。

味がしなかった。熱いものが喉から降りていくのが分かっただけで、香りも味もしない。味覚がない。高校生の時と同じだ。あの頃、ドーナツとポテトチップスの味が分からなくなっていた。

 

テレビでは暇な主婦向けの下世話な情報番組が流れていた。それを眺めながら、結局パンクが部屋のチャイムを鳴らす昼過ぎまで、ずっと飲んでいた。低いソファに身体を沈めながら。

無性に腹が立って仕方なかった。テレビの向こうの白い壁に、母親の顔がずっと見えていた。その母親は俺を失望させることばかり言う。俺は腹を立て手に掴んだティッシュの箱や、タオルをその顔に向かって何度も投げつけた。そのたびに俺を嘲笑った。

 

「どうしたの。顔が青いよ。」

昼頃、パンクが部屋に入ってきて言った。「飲んでるの?どうしたの、めずらしい」

 

「なんでもない」俺は言ったが、明らかに様子がおかしかったと思う。

パンクの背後にまた母親の顔が見えた。

「後ろ?何か見えるの?」

 

「なんでもない」

 

「体調良くないなら、映画はやめてここでご飯作って食べようよ」とパンクが言う。

 

俺は何も答えずテレビの前に座った。テレビでは芸能人が芸能人を電話で紹介してトーク番組に誘うくだらない企画をやっていた。毎日昼に新宿のスタジオから生放送している番組。

 

「アキラ。テレビの音、消えてる。」

 

テレビを見ている気になっていたが、実は音量がゼロになっていた。無音の部屋でテレビを見ている気になっていたらしい。

パンクは何かを察したようで、背負っていたリュックを床に置くと俺の横に駆け寄った。額に手を当てる。

「熱はない」

 

アキラ、服脱いで横になって。パンクにそう言われ、無理やりTシャツを脱がされた。ベッドの上にうつぶせになると、パンクが手のひらを俺の背中に当てた。とても熱い感覚があった。

「ものすごく冷えてるよ」

身体が死人のように冷たいと言った。

 

パンクは強張った背中の筋肉を細い指でマッサージしてくれた。強く押されるたびに後頭部にに圧がかかるような感覚があった。

「こんなに硬くなることってよくあるの?」パンクが言う。

「気にしたことないよ」

パンクは浴槽に熱いお湯を張り、俺を裸にして浴室に連れて行った。自分も裸になって一緒に浴槽に浸かった。大きいバスタブだったが、勢いよくお湯が溢れた。

「アキラ、あんた頑張ってる。」

そう言った。パンクの背中には小さな入れ墨があった。肩の後ろに、ほんの小さなスミレの花びらの模様の。

「頑張ってるって何を頑張ってるのか分からないな。」

「いつから調子悪いの。」

「今朝。客といるときから。」

「もっと前からきっと調子悪かったよ。」

 

浴槽の中でも、絶えず母親が俺を何か責め立てていた。あなたは迷惑なの、そう言っていた。産まなきゃよかったのに。

 

「何が見えてるの?」パンクが俺の顔の見て言う。私の顔を見えていなかったよ、と。

 

「少し眠ればきっと良くなる」

パンクはそう言った。風呂から上がり、Tシャツを着て2人、またベッドに入った。

きっと疲れているだけ。俺はそう思いながらいつの間にか眠ってしまった。途中何度も大きな声を出していたようだったが、パンクが声をかけてくれた。

「誰もいないし、何も起きていないよ」何度もそう言っていた。

 

目を覚ましたのは、22時を過ぎた頃。10時間近くも眠っていたらしい。少し体が楽になった気がした。

「今日は泊まっていくけど、いい?」パンクが言う。

「いいよ」

「ごはん作ったんだ。アキラが寝ている時にスーパーにも行ってきた。すっぴんで。」

パンクはハンバーグを作ってくれていた。大きなハンバーグが四つも。

「材料の分量が分からなくて、作りすぎたけど。」

「うまそうだね。料理こんなに上手なんだっけ?」

「親がいつも家にいなかったし、子供の頃からわりと作れるんだ」

「見かけによらないね」

それは俺は少し笑った。

「やっと笑った」

パンクがそう言う。

 

スーパーの隣の酒屋で安く買ってきたというハイネケンを何本か空けた。

「あの店の太ったおばちゃん、私のこと毛虫でも見るような目つきだったよ」

「耳にそんなにピアスがあるとね」

「味、どう?」

「美味いよ、とても」

「味覚はあるの?」

「舌が痺れてるけど、ハンバーグの味は分かる」

「よかった」

パンクは、ソースの味を濃くしてくれていた。本当は味覚が戻っているわけがなかったけれど、味を濃くして味覚を感じるようにしてくれていたんだろう。

 

「あの話を聞かせて」

パンクがそう言ってねだったのは、俺がまだ青森の田舎で高校生だったころ、窓の外で激しく降りしきる雪を見ていたという話。

雪が降ると、灰色の空と、雪が積もった家の屋根の境目が見えなくなるんだ。真っ白な世界になって、音もなく雪がいつまでも降り積もっていく。俺は大学受験が迫っていた。でも、3年間で勉強できたのは世界史の教科書3ページ分。3ページを何度も繰り返し読んでいただけ。数学は0点、生物は6点というありさま。大学受験なんて不可能だった。自宅の部屋から雪が降る景色をずっと眺めていた。

 

そんな話を夏の終わりの東京で、Tシャツ姿でハイネケンを飲みながらパンクに言う。

パンクはそんな光景の話が好きだった。

「いつか、その景色を見たいんだ」

「冬になったら連れていくよ」

その頃は、パンクと過ごす冬が来ないなんて想像もしていなかった。恋愛の終わりが忍び寄っている空気なんて、当時の俺には耐えられない想像だったから。

 

その日の夜中、パンクと2人で夜の街を散歩した。

マルボロを吸い込み、上を向いて煙を吐きながら、2人で近所の神社まで歩いた。朝のように寒気はもうしなくなっていた。

ジッポーライターを閉じる音が夜の住宅地に響いた。パンクがデニムのお尻のポケットにライターを突っ込む仕草が好きだった。オイルが焼ける匂いとその音は、タバコを吸わなくなってからも覚えている。

 

神社は小さな繁華街の中にあった。決して暗くはない夜の神社で、別に何か祈るわけでもなく、何かもったいぶった石碑に腰かけてもう一本だけ煙草を吸った。

 

ガキの頃、母親から電話がかかってくるのを毎日待っていたことを思い出していた。

もちろんそんなことはありえない。でも、ありえないことを信じて、お祈りをしていたんだ。何の神様だったかは分からないが、電話が鳴ることを待ち続けていた。それは今までずっと、鳴ることはなかった。

神社の向こうの暗闇で母親がこっちを見て嘲笑っていた。

 

「帰ろうか」とパンクに言った。

 

「もう少しお酒を買って帰ろう」

パンクが言うので、少し遠回りをしてコンビニに向かって歩いていった。

 

「冬になったら、雪を見に連れていくよ」

俺はまたそう言った。

パンクは返事をしないまま、何か黙っていた。

 

【The Weekend】星さがし

19歳の風俗嬢が、最近俺をよく訪ねてやってくる。

 

もともとその子の年の離れた姉が、俺が一緒に働いていた風俗嬢だった。

もう結構むかしの話。15年以上前。

姉の方は源氏名をNといい、実年齢と比べ精神的に自立しているタイプ女性だった。知能が高いのか思考経験が豊富なのか、独特の言葉選びで話をする。風俗の仕事のことを「星さがし」と呼んだ。なぜ星なのか、最初は分からなかった。

 

当時20歳だったが大人びて見えた。背が172センチあり、黒いタートルネックのニットにポニーテールという姿をよく覚えている。仕事の時だけ髪を下ろす。髪を下ろすととたんに幼い印象になる。

Nは当時、風俗の仕事でお金を貯めて大学に行くんだと俺に教えてくれた。優秀な高校を卒業したが家庭環境が複雑で進学を諦めたらしかった。再婚を繰り返す母親、離婚のたびに困窮する家計、高校の学費さえ滞納することも多かったという。大学を考えていた時期、母親がまた再婚をした。当時50歳を過ぎた貧乏そうな男だった。

「母が出会い系ばかりやってるから」とNは言った。

出会い系サイトで見つけた粗末な男は仕事をしていたものの、所得が極端に低く、母親にお金を渡さなかった。母親のパートの仕事で家族は暮らしていた。

そんな状況では大学など無意味だし、奨学金を借りるにしてもそもそも受験費用さえなかった。考えることさえ億劫になっていた。


Nは自宅に居場所がないと感じ、高校三年生の放課後は、深夜になるまで街を彷徨っていた。駅のコインロッカーに入れた私服に着替え、ひたすら街を歩いた。繁華街の灯りをくぐり抜け、暗い住宅街で自分の影を追って。

 

「星さがし」という言葉は、この時、自分のその時間つぶしのことだったと、Nは俺に教えてくれた。

「星が見えていたの。その頃」そう俺は訊く。

「見えないよ、明るい街だったから。でも星を探して歩いているんだって空想してた」

 

俺は、Nの高校生の頃の姿を想像した。私服に着替えて、都会のビルとビルの狭間をすり抜けてどこかに消えていく脚の長い高校生。

 

風俗の仕事は多かれ少なかれ精神を蝕むような世界だ。お世辞にも綺麗な仕事ではない。

本当はこんな仕事なんかしたいわけがない。でもNはいつも笑顔で過ごしていた。

みんな愚痴っていたり途中で投げ出してしまうのが当たり前だが、Nはなぜか笑っていた。

風俗嬢のことを晒してあげつらうネットの掲示板サイトでは、Nのことを「根っからの変態」だとか「風俗が天職の性欲娘」だとかいつも書かれていた。風俗客の知能レベルなどそんなものだ。


Nにとって風俗で働くとは、孤独を募られながら深夜まで彷徨うあの暇つぶし、星さがしだったんだろう。

 

Nは「星さがし」を辞めた後、予定通り大学に進学した。センター試験の前々日まで客を取っていたので、本当にすごい集中力だったと思う。希望通りの大学に入学し、大手企業の勤務を経て、今は結婚もしていると知人から噂で聞いた。

 

仕事を辞めてからもう話をすることもない。俺のことは忘れてくれていい。風のうわさでいいから、「まとも」な生活をしていてくれたらいいなと願っているだけ。

 

 

そんなNの妹が、19歳の風俗嬢。

 

姉がNなんです、と、初めて俺に連絡をしてきたのは、夏の終わり。俺の体調が最悪の時期だった。窓からは夏の終わりを感じさせる風が流れている深夜2時のこと。

一睡もできず最悪の精神状態の中でも、Nという言葉に反応した。

 

妹?そうだった。父親が違う妹がいて、手を繋いで俺に会わせたことがあったな。コロコロしてほっぺの赤い可愛い女の子だった。抱っこもしたことがある。あの子のことかな。

 

その時は近いうちに会ってほしいという意味のことを言われたが、俺の体調が少し回復したらねと、俺はしばらく会うことはなかった。そのまま、妹のことを忘れていた。

最近、妹からメッセージをもらい、また思い出した。

 

「会えますか」とNの妹は言った。

 

冷静になって考えてみると、俺は少し戸惑ってしまった。無視してもいいんじゃないのか。本当にNの妹だとしても、ノルタルジーでその妹と会って、懐かし漫談を繰り広げる趣味は俺にはない。Nとは一度終わった関係であって、その周辺とは積極的に絡みたくはない。俺はNにとっての若い頃の間違いの象徴なのだから。

約束だけして当日すっぽかすのがよかろう、そう思った。それなら二度と連絡は来なくなる。

 

でも、Nに連絡を入れてみようかと迷った末に、やめた。

 

3日間ほど考えた末に、すっぽかすつもりで返事をした。会うよ、と。場所は駅前のファストフード店。フライドポテトが揚がったのを知らせるアラームが鳴り響いているような店。

がっかりさせるだろうが、会うわけにはいかない。君もアキラに関わるべきでもない。

 

でも約束した当日、俺はなぜか気が変わり、約束の場所に向かうことにした。


15分遅れて約束のファストフード店に入ると、妹が誰かすぐに分かった。人混みの中でも、俺にははっきりと目に付く。

 

背が高く、大人びた雰囲気の19歳。ノースリーブの淡い水色のワンピースを着ていた。あの子だと思った。


Tシャツにショートパンツ姿の女性が多いそのファストフード店で、ひときわ場違いの雰囲気を漂わせていた。

俺を見ると、ぱーっと花が咲くような笑顔を見せた。Nにそっくりだと思った。

すっぽかすつもりで、さっきたまたま気が変わっただけだとは言えないほど可愛らしい笑顔をしていた。

 

その妹は、本名を“ゆうか”だと記憶していたが、間違えていなかった。

「姉は今ね・・・」とゆうかが楽しそうに話しだそうとしたので、俺は制止した。

「ううん、言わなくていい。Nが俺に知られたくないことかもしれないでしょ」と俺は穏やかに言った。

「気にしないと思いますけど、分かりました、アキラさんに訊かれるまで言わないことにしますね」ゆうかが答えた。

 

ファストフードのやけに香りの強いコーヒーを啜りながら、ゆうかの話を訊いた。

 

今、風俗店で働いていること。

親が離婚と再婚を繰り返し、家に居場所がなく飛び出したこと。

風俗で働いていることが彼氏にバレて、別れてしまったこと。

 

そこには、なぜアキラと会おうと思ったのかという話は含まれていなかった。そのことに俺はホッとした。俺は何かについての相談を受けたくはないなと思っていたから。悩みとかね。俺はそういうお悩み相談所ではない。


普通はこういう面会を嫌うのかもしれない。

「それで何の用なの?」と言うかもしれない。

でも俺はそうじゃない。

 

でも、Nの妹、ゆうかがそれを知ってか知らずか、会いたいという願望だけで会って話をしていることが分かり安堵した。

 

「ちょっとドライブしようか」と俺が言ったら、ゆうかは喜んでいた。駐車場まで歩いて行く。後ろ姿があの頃のNに似ている。白いSUVに乗り込み、走り出した。


ほんの一時間くらい運転して、海でも見に連れて行こうかと思った。

 

街の渋滞から抜け道を探して、坂道を登ったり降りたり。海に着くまでの間、ゆうかはずっと自分の話をしていた。

状況がつかめない話もあったり、俺の知らない世界の話もある。風俗の仕事については特に話はしなかった。将来はこんな仕事についてみたいとか、大学は・・・勉強できないしなとか。お金?お金はあるよ、とか。

 

不思議なんだが、こういう「遠くの鐘の音」を聞くような会話をしていると、心の滓が流れていくのが分かる。

アキラさんは?19歳の時は何をしていたの?ラブレスキューに出てくるあの話はその後どうなったの?なんて質問されて、俺もあいまいなことを言う。

 

俺の話だって分かりやすい話は何一つしない。ゆうかにとっても遠くの鐘の音を聞くようなものだろう。

 

埠頭の近くに車を停めて、古い喫茶店に入った。築50年以上の古い木造の民家を改造した喫茶店で、窓際の席から港が見える。見た目が親子のような2人が入ったので、店主の中年女性が、「お父さんとコーヒーなんて素敵ですね」とゆうかに声をかけた。

 

「はい」とゆうかは笑って答え、俺を大きな黒目の瞳でチラッと見た。

ふふ、と2人で含み笑いをしながら、夏の終わりの少し曇った海を眺めていた。

コーヒーが苦い。

 

俺ね、知ってるよ。そう口に出さずに思っていた。

伝えたいこと、言いたいことほど言葉にはならないってこと。気遅れして言えないのではなくて、そもそも伝えるための言葉を知らないってことも。

 

俺だって、19歳の時、そんな風に話をしていた大人の女性がいた。会うたびに、ただ東京の路地裏を歩くだけだった。そこに何があるわけでもない。ただ歩いて、他愛もない話をする。

遠くで鳴る鐘の音を、ただ、ぼんやりと聞くような時間が嬉しかったことを覚えている。

 

星さがしの話を教えてくれたNのこともぼんやり考えていた。

 

星を探して路地裏に迷い込む10代の夜のことを、また空想していた。きっと路地裏ではNの影が長く伸びていただろうな、とか。

 

「またこうして会ってくれますか?」とゆうかが言う。

 

それから、一冬が過ぎようとしている今まで、ゆうかとは何ら具体的な話をしないまま、時々会い、一緒にコーヒーを飲んでいる。

ゆうかにとっての星さがしに付き合い、俺もまた、星をさがすふりをしている。